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緒言
前稿では、内受容感覚の測定法と、島皮質を中心とする神経基盤について解説した。しかし、脳は単に身体からの信号を受動的に受け取っているだけなのだろうか。近年の認知神経科学、特に大平英樹教授らが精力的に展開する研究は、脳を**「能動的な予測マシン」として捉える「予測的処理(Predictive Processing)」または「予測符号化(Predictive Coding)」**という理論的枠組みに基づき、内受容感覚の役割を根本から捉え直そうとしている。本稿では、この予測的処理モデルの核心と、それが感情や意思決定の理解をどう変えるのかを解説する。
予測的処理モデルの基本原理
予測的処理モデルは、脳の基本的な機能が「外界や自己の身体の状態について、絶えず内部モデル(生成モデル)を用いて予測を立て、実際の感覚入力との誤差(予測誤差)を最小化すること」であると仮定する。これは、カール・フリストンが提唱する自由エネルギー原理に基づく、脳の統一的な動作原理モデルである。
この枠組みにおける脳と身体の対話は、以下の2つの情報流の相互作用として記述される。
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トップダウンの予測信号 (Top-down Prediction): 脳の高次領野(前頭前野など)が、現在の文脈や過去の経験に基づいて、次に生じるであろう感覚入力(例:心拍数、血圧など)を予測し、低次領野(島皮質など)へと送る信号。
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ボトムアップの予測誤差信号 (Bottom-up Prediction Error): 身体から実際に送られてくる感覚入力と、脳からのトップダウン予測との差分。予測が完璧であれば予測誤差はゼロになり、予測が外れると大きな誤差信号が生成され、高次領野へと送られる。
脳の目的は、この「予測誤差」を長期的に最小化することである。そのために、脳は2つの戦略を使い分ける。
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戦略A:予測の更新 (Perceptual Inference): 予測誤差に基づき、内部モデル(=世界の解釈)の方を修正する。例えば、「予想外に心拍が速い」という誤差信号を受け取った脳が、「自分は今、不安を感じているのだ」と知覚を更新するプロセスがこれにあたる。
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戦略B:行動による世界の変更 (Active Inference): 予測誤差を減らすように、行動を通じて感覚入力そのものを変化させる。例えば、心拍上昇の原因である脅威から逃げる、あるいは、自律神経系に働きかけて心拍を落ち着かせる、といった行動がこれにあたる。この、環境変化に適応するために身体状態を能動的に変化させるプロセスは、**アロスタシス(Allostasis)**とも呼ばれる。
ソマティック・マーカー仮説の再解釈
この予測的処理モデルは、アントニオ・ダマシオが提唱した有名なソマティック・マーカー仮説に、新たな計算論的基盤を与える。
ソマティック・マーカー仮説とは、意思決定の際に、過去の経験(特に情動を伴うもの)によって身体に刻み付けられた反応(マーカー)が、選択肢の良し悪しを直感的に知らせ、合理的な判断を助けるという理論である。
予測的処理の枠組みでは、この「マーカー」は、単なる過去の反応の再生ではなく、「もしこの選択肢を選んだら、身体はどのように反応するだろうか」という脳による能動的な予測であると再解釈される。つまり、リスクの高い選択肢を検討する際、脳は過去の失敗経験から「不快な身体状態(心拍上昇、発汗など)」を**シミュレーション(予測)**する。この予測された不快な身体感覚こそがソマティック・マーカーであり、予測誤差を増大させる「悪い選択肢」として、意識的な熟慮の前に候補から除外される、あるいは優先順位が下げられるのである。
大平教授らの一連の研究は、心拍誘発電位(HEP)などで測定した内受容感覚の感度(予測誤差に対する感度)が高い個人ほど、ギャンブル課題などでこの予測的シミュレーションが効率的に働き、長期的に有利な選択を素早く行えることを実証している。これは、「直感」や「経験則」といったものが、脳と身体の間の精密な予測と誤差修正のループによって支えられていることを強く示唆する。
結論
予測的処理モデルは、内受容感覚を、単に身体の状態を読み取る「入力」としてではなく、脳が自己と世界を理解し、未来に適応していくための能動的かつ循環的なプロセスの根幹として位置づける。感情や意思決定は、この身体を巻き込んだ絶え間ない予測と誤差修正のループの中から「創発」してくる現象なのである。次稿では、このモデルの破綻が、不安障害やうつ病といった精神疾患とどう関連し、またマインドフルネスなどの治療法がなぜ有効なのかについて、臨床的な観点から掘り下げていく。
「内受容感覚」シリーズ記事
- (まとめ)内受容感覚とは何か?-「感じる身体」の科学への招待
- 深掘り解説:内受容感覚(1) - 測定法と神経基盤
- (本記事)深掘り解説:内受容感覚(2) - 予測的処理モデル
- 深掘り解説:内受容感覚(3) - 臨床応用と精神疾患
主な引用文献
- Ohira, H. (2020). Predictive processing of interoception, decision-making, and allostasis: A computational framework and implications for emotional intelligence. Frontiers in Psychology, 11, 1963.
- Barrett, L. F. (2017). The theory of constructed emotion: an active inference account of interoception and categorization. Social Cognitive and Affective Neuroscience, 12(1), 1-23.
- Damasio, A. R. (1994). Descartes' error: Emotion, reason, and the human brain. Putnam.