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緒言:VR空間を「歩く」という根源的な課題
バーチャルリアリティ(VR)体験の質は、「移動(Locomotion)」の設計に大きく左右されます。ユーザーは広大なVR空間を自由に探索したいと願う一方で、現実の我々は狭い部屋におり、また視覚と身体感覚のズレは深刻な「VR酔い」を引き起こします。この「無限の移動への欲求」と「身体・空間の制約」というジレンマをいかに解決するかは、VR研究における根源的かつ最重要の課題です。この複雑な技術領域に羅針盤を与えてくれるのが、**Constantinos Boletsis氏が提唱・更新してきたVR歩行技術の分類体系(Typology)**です。本稿では、氏の2017年および2022年のレビュー論文に基づき、VR歩行技術の全体像を解説します。
VR歩行技術の分類体系 (Boletsis, 2017, 2022)
Boletsisは、多様なVR歩行技術を、ユーザーの身体動作とVR空間での移動方法の関係性から、主に4つのカテゴリに分類しました。
1. Real-Walking (現実の歩行)
物理空間での実際の歩行を、VR空間内の移動に1対1でマッピングする、最も自然な方法です。
- 概要: ユーザーが歩けば、アバターも歩く。直感的で没入感は最も高い。
- 課題: VR体験ができる範囲が、物理的な部屋の広さ(ルームスケール)に厳密に制限されます。
- 発展技術 - Redirected Walking: この空間的制約を克服する技術。ユーザーが気づかない僅かな範囲でVR空間の方を少しずつ回転させ、実際には部屋の中をぐるぐる歩いているだけなのに、本人は無限の直線通路を歩いていると錯覚させます。ただし、実現には高度なトラッキング技術と最低でも5m x 5m程度の空間が推奨されます。
2. Semi-Natural (半自然的な歩行)
実際の移動は伴いませんが、歩行を模した身体動作によって移動する手法群です。
- 概要: その場で足踏みをする(
Walking-in-Place
)、あるいは腕を振る(Arm Swinging
)ことで、VR空間内を前進します。 - 課題: Real-Walkingよりは空間を必要としないものの、VR酔いを引き起こす可能性があり、また身体的な疲労も伴います。
3. Artificial (人工的な移動)
歩行とは全く関係のない、抽象的な操作によって移動する手法群です。
- Controller-based: ゲームパッドのジョイスティックを倒すことで、連続的に移動(スライド移動)します。最も手軽ですが、視覚情報(景色が流れる)と身体の前庭感覚(自分は静止している)の間に最も強い不一致を生むため、VR酔いの主要な原因とされています。
- Teleportation: コントローラーでポイントした地点に、一瞬で移動(ワープ)します。VR酔いをほぼ完全に回避できるため、市販の多くのVRコンテンツで標準的な移動方法として採用されています。しかし、移動の連続性が失われるため、空間の構造を把握しにくく、没入感を損なうという大きな欠点があります。
4. Motion-based Teleporting (動作ベースのテレポート)
2022年のレビューで新たに追加されたカテゴリ。テレポートの行き先指定や実行といった操作を、より身体的なアクションで行う手法です。
- 概要: 例えば、行きたい方向を実際に指さしたり、視線を向けたりすることで移動先を決定します。Artificialなテレポートに、Semi-Naturalな要素を組み合わせたハイブリッドな手法と言えます。
- 課題: 従来のテレポートが持つ没入感の阻害という問題を、より直感的な身体動作で緩和することを目指しますが、その効果については更なる検証が求められます。
各技術の課題と社会実装への展望
Boletsisの研究が示すように、全てのアプリケーションにとって完璧な「唯一の正解」は存在しません。各技術は「没入感」「VR酔いのリスク」「空間制約」「学習コスト」といった複数の軸でトレードオフの関係にあり、目的やユーザーに応じて最適なものを選択・組み合わせる必要があります。
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エンターテイメント・メタバース分野: 不特定多数のユーザーが参加するソーシャルVRなどでは、VR酔いを避け、誰でもすぐに使えるTeleportationが、今後も主要な移動手段であり続けるでしょう。一方で、高い没入感が求められる一人用のアクションゲームなどでは、酔いのリスクを許容できるユーザー向けにController-based移動やSemi-Naturalな手法がオプションとして提供される、という棲み分けが進むと考えられます。
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産業応用(訓練・シミュレーション): 建築物のウォークスルーや、現実空間の再現性が重要な避難訓練・戦術訓練などでは、Real-WalkingやRedirected Walkingが不可欠です。コストや空間はかかりますが、それに見合うだけの訓練効果が期待できます。一方で、高所での作業訓練など、特定の地点での作業が主目的の場合は、作業ポイント間の移動は効率的なTeleportationで行うのが合理的です。
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アクセシビリティ: Teleportationは、身体的な制約により現実世界での移動が困難なユーザーにとって、VR空間を自由に探索するための極めて重要な手段となります。この観点では、没入感よりも「移動できること」そのものの価値が優先されます。
結論と今後の研究
Boletsisによる一連のレビューの最大の功績は、混沌としていたVR歩行技術のランドスケープを体系的に整理し、研究者や開発者が議論するための「共通言語」を提供した点にあります。彼の分類体系は、新たな技術が登場した際に、それが既存技術とどう異なり、どのようなトレードオフを持つのかを位置づけるための強力なフレームワークとなります。
今後の研究としては、以下のような方向性が考えられます。
- ハイブリッド手法の探求: 複数の技術の動的な組み合わせ。例えば、長距離はテレポート、中距離はジョイスティック、近距離はReal-Walkingといったように、状況に応じて最適なモードにシームレスに切り替える手法の研究。
- VR酔いの更なる低減: 歩行中、視野の周辺部を動的に狭める(Dynamic Field of View)といった新しい酔い軽減技術と、各種歩行技術との最適な組み合わせの検証。
- 触覚フィードバックの統合: 床に設置した振動デバイスや、靴型のデバイスを用いて足裏に歩行感を提示する技術と、Semi-Naturalな手法を組み合わせることで、没入感を向上させる研究。
VRにおける移動は、単なる機能ではなく、体験そのものです。この分野の地道な研究の積み重ねが、未来のメタバースの質を決定づけると言っても過言ではないでしょう。
主な引用文献
- Boletsis, C. (2017). The new era of virtual reality locomotion: A systematic review of techniques and a proposed typology. Multimodal Technologies and Interaction, 1(4), 24.
- Boletsis, C. (2022). Virtual Reality Locomotion: An Updated Systematic Review and a Typology. Multimodal Technologies and Interaction, 6(10), 86.