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手がスライムになる!?「スライムハンド錯覚」が暴く、もう一つの身体感覚 2025-10-03

論文解説認知科学脳科学身体所有感錯覚

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はじめに:ラバーハンドイリュージョンの「常識」

前回の記事で解説したように、「ラバーハンドイリュージョン」は、ニセモノの手が自分の体のように感じられる不思議な錯覚でした。この錯覚が起きるには、ニセモノの手が「本物の手らしい形」をしていることが、とても重要だと考えられてきました。私たちの脳は、あまりにも現実離れしたものは、自分の体として受け入れてくれない、というのがこれまでの常識だったのです。

しかし、その常識に「待った!」をかけた、非常にユニークな研究が2021年に日本から発表されました。それが**「スライムハンド錯覚」**です。今回はこの研究を元に、私たちの脳が持つ、もう一つの身体の感じ方について探っていきましょう。

実験方法:もし、自分の手がスライムになったら?

この実験のアイデアは、まさに奇想天外です。

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  1. 実験の参加者は、鏡の前に座ります。自分の手は鏡の裏に隠れていて、見えません。
  2. 参加者が見ているのは、鏡に映った、自分の手があるはずの場所に置かれたドロドロのスライムです。
  3. そして、隠された自分の手の甲の皮膚をローラーでつまんで引っ張ると同時に、目の前のスライムが、鏡の中で同じ方向にニューっと引き伸ばされます。

すると、どうでしょう。参加者は、「自分の手の皮膚が、まるでスライムのように、ありえないほど長く(平均約30cmも!)伸びてしまった!」という、驚くべき感覚を報告したのです。

この研究のどこがスゴかったのか?

この研究の最大のインパクトは、ラバーハンドイリュージョンの大前提だった**「本物らしい形」というルールを破った**点にあります。人間の手とは似ても似つかない「スライム」でも、視覚と触覚のタイミングさえ合っていれば、脳はそれを自己の身体の一部(の変形)として認識してしまったのです。

これは、私たちの脳が「自分の身体」を感じる仕組みが、一つではない可能性を示しています。研究チームは、私たちの身体イメージが、性質の違う2つの層から出来ているのではないか、という**「多層モデル」**を提案しました。

  1. カタチの身体(構造的身体像): 「手には5本の指があり、肘は一方向にしか曲がらない」といった、骨格レベルでの身体の形や構造に関する感覚です。ラバーハンドイリュージョンは、主にこちらの感覚を扱っていたため、「手の形」が重要でした。

  2. 表面の身体(表層的身体像): 皮膚のように、伸びたり、つままれたり、変形したりする、身体の表面に関する感覚です。こちらの感覚は、形にはあまりこだわらず、視覚と触覚の同期といった、リアルタイムの情報がより重視されるようです。スライムハンド錯覚は、この「表面の身体」の感覚に直接アクセスすることで、「カタチの身体」の常識を飛び越えた、大胆な身体の変形を可能にしたのです。

考察:「誰の手?」問題と「どうなってる?」問題

なぜ「スライム」でこのような錯覚が起きるのでしょうか。それは、ラバーハンドイリュージョンとスライムハンド錯覚が、脳にとって少し違う問題を扱っているからかもしれません。

  • ラバーハンド錯覚: 主に「この手は誰のものか?」という、所有者を判断する問題を扱っています。だから、脳は「自分の手リスト」にあるもの(=手の形をしたもの)しか、候補として受け入れにくいのです。
  • スライムハンド錯覚: 主に「自分の皮膚は、今どうなっているか?」という、状態を判断する問題を扱っています。この時、脳は「皮膚が引っ張られている(触覚)」という情報をなんとか説明しようとします。そこに「スライムが伸びている(視覚)」という情報が同期して入ってくると、脳は「なるほど、自分の皮膚がスライムみたいに伸びているのか!」と、物理的にはありえなくても、感覚的には最も納得のいくストーリーを知覚として作り上げてしまうのです。

この研究、何の役に立つの?

この「身体イメージの多層モデル」という考え方は、特にバーチャルリアリティ(VR)の世界で、私たちの体験を大きく変える可能性を秘めています。

VRで使うアバターは、今までは人型がほとんどでした。それは、脳が「人間の形」から離れたものを、自分の身体として受け入れにくかったからです。しかし、スライムハンド錯覚の原理を応用すれば、話は変わってきます。

例えば、タコのような触手を持つアバターや、ゴムのように体が伸び縮みするアニメキャラクターでも、その表面の動きと、自分の身体への触覚フィードバックをうまく同期させてやれば、脳は「表層の身体」のレベルでそれを受け入れ、本当にそのアバターになりきったような、深い没入感が得られるかもしれません。これは、未来のメタバースにおけるコミュニケーションや表現の幅を、無限に広げる可能性を秘めています。

おわりに

スライムハンド錯覚は、「自分の身体」という感覚が、ガチガチの「カタチ」の感覚と、フニャフニャの「表面」の感覚という、二重構造になっている可能性を教えてくれました。日本の研究者が見つけたこの不思議な錯覚は、自己とは何かという深い問いと、未来のデジタル体験のデザインの両方に、大きなヒントを与えてくれる、非常にエキサイティングな一歩と言えるでしょう。

主な引用文献

  • Kodaka, K., Sato, Y., & Imai, K. (2022). The slime hand illusion: Nonproprioceptive ownership distortion specific to the skin region. i-Perception, 13(6).
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